■ ピアノ指導者のための『リサイタルに向けた短期集中型ピアノレッスン』コース開設のお知らせ

ピアノ指導者としていつまでも生徒さんから憧れ尊敬されるためには、リサイタル開催は不可欠と言われる時代になりました。
そして自分自身のために一度はやってみたいのが “夢のリサイタル”

とは言っても思いつくことは果てしなく大変なことばかりです。

2002年からプライベート・ピアノ・レッスを始めて13年間、ハードルを乗り越えるために一緒に悩みながら問題を解決し、多くの生徒さんのリサイタル開催をサポートしてまいりました。

その積み重ねた経験やノウハウを生かし、高いクオリティのリサイタル開催をお手伝いをするために、『短期集中型ピアノレッスン』コースを新設いたしました。

柴野さつき

ご案内はこちらをご覧下さい

■ [Movie] Trois morceaux en forme de poire – Maniere de commencement / Erik Satie by Satsuki Shibano w/ Jean-Joel Barbier (1981)

エリック・サティ「梨の形をした3つの小品」より「開始のひとつのやり方」

Satsuki Shibano (柴野さつき) : Piano
Jean-Joel Barbier (ジャン=ジョエル・バルビエ) : Piano

Live at Espace Japon 12.18.1981

■ [Live] Erik Satie excentrique piano & talk live vol.4 @ CAFE BEULMANS 「スポーツと気晴らし」完結編

-終了しました-

20150704_2エリック・サティ エキセントリック・ピアノ&トーク・ライブ
– 新たに発掘された資料が描く等身大のサティ像、あるいはもう一つのサティ論 –

Vol.4 スポーツと気晴らし・完結編、初稿デッサンから浮き彫りになるサティのメチエ

柴野さつき (Satsuki Shibano):piano & talk
尾島由郎 (Yoshio Ojima):electronics & talk

日程: 2015.7.4(Sat)
開場:19:30 / 開演:20:00 (2ステージ、入替無し)
会費:3,000円(ミュージックチャージ)+ 2ドリンクオーダー

演奏曲目
エリック・サティ:スポーツと気晴らし / 貧者のためのミサ 他

毎回、エリック・サティの大胆な新解釈を披露し等身大のサティ像に迫る「エキセントリック・ピアノ&トーク・ライブ」の第4回目。サティ演奏家の第一人者であるピアニスト柴野さつきと、一貫してアンビエントミュージックの世界を追求する音楽家・尾島由郎が演奏とトークでお送りします。

今回は、昨年の本ライブで時間切れとなり未完のまま終わった「スポーツと気晴らし」の新事実を徹底的にご紹介する完結編を中心にお送りします。
「スポーツと気晴らし」とは、20世紀初頭フランスで最も先進的なファッション誌『ガゼット・デュ・ボン・トン』で人気の絵師シャルル・マルタンが描く20枚のファッションプレートに、サティが21のピアノ小曲を加えて出版された作品集。限定版125部しか出版されなかった総カラー版ポショワールの原画上映に加えて、近年発表された貴重な初稿デッサンを見比べることで、現代まで通説となっている誤読が生んだミスティフィカシオンを晴らし、サティのメチエをくっきりと浮き彫りにします。

加えてリリース間近のニューアルバムより「貧者のミサ(オルガンと合唱による)」をピアノとエレクトロニクスによる演奏で今に蘇らせる試みなどをお送りします。

夏が始まる季節に、戯れと祈りが重なり合う一時。ご堪能あれ。

場所:CAFE BEULMANS
東京都世田谷区成城6-16-5カサローザ成城2F
Tel 03-3484-0047

ご予約・お問い合わせ:CAFE BEULMANS

■ [Text] 『スポーツと気晴らしの真実』の発言録(抜粋)~ エリック・サティ エキセントリック・ピアノ&トーク・ライブ Vol.2より

10258113_491610327647608_8845284480807233372_nエリック・サティ エキセントリック・ピアノ&トーク・ライブ
– 新たに発掘された資料が描く等身大のサティ像、あるいはもう一つのサティ論 –

Vol.2『「スポーツと気晴らし」の真実』の発言録(抜粋)

発言者:柴野さつき、尾島由郎

2014年9月27日 カフェ・ブールマン(成城学園前)

「お待たせしていて申し訳ありません。サービスの方に時間がかかっていますので、その前にお話を・・・」

「今日はたくさんお集まりいただきましてありがとうございます」

「実は3月にもこちらのカフェ・ブールマンさんで、1回目の『エリック・サティ エキセントリック・ピアノ&トーク・ライブ』というものをやらせていただきまして、今回は第2回目なんですが、前回も普段メジャーに聴かれない曲を引っ張りだして、我々もここ20年30年くらいエリック・サティの音楽とは付き合っているんですけれども、また最近になっていろいろ新しい情報が入ってきたりして、今までの解釈と変わってきたということもありまして、そのあたりのことも踏まえながらもう一度新しくサティをとらえ直してみようと、そんな思いでアルバムを作ったりいろいろやってきたんですが、こちらのマスターの吉岡(剛秀)さんや荒垣(愛香)さんにご協力いただいて、こうしたライヴをやっております」

「今日は、演目としては『スポーツと気晴らし』というサティの作品を前半にやりまして、後半は映画のために作った音楽、そしてある儀式のために作った音楽。前半にご紹介する『スポーツと気晴らし』も音楽だけというか、書物と一緒に作られた音楽ですので、どっちっかというとミュージック・フォー何々という、何かに付随するための音楽ですね。そのあたりを中心にお送りします。ちょうどサティの青年期から晩年にまたがる作品で、そもそもさっきからスクリーンに写っているこの人がサティさんで、1866年に生まれて1925年に59才で死んじゃった人なんですが、まさに19世紀末から20世紀初頭の一番面白い時代に生きていたフランスの作曲家です。この人の世界を、映像をふんだんに使って、前回の映像10割増でお送りします(笑)」

———-(『グノシェンヌ1番』を演奏)

「これはサティ24才の時の作品です」

「それからいきなり48才の1914年、ちょうど今から100年前に作られた、日本で言えば大正3年で、『スポーツと気晴らし』というこれはピアノ21曲の小曲集です。これはそもそも当時フランスで人気のあった高級ファッション雑誌『ガゼット・デュ・ボントン』という雑誌がありまして」

「今でもある『ヴォーグ』というファッション雑誌の前身となる」

「吸収されてしまったわけですね。その編集者のルシアン・ヴォージェル、この人も後でご説明しますけどすごい人で、この人が自分の『ガゼット・デュ・ボントン』という雑誌に、当時カラー写真はないので、モードを伝えるためにファッションをイラストレーションで表現してたんですけど、その中で人気のあったイラストレーターのシャルル・マルタンの画にサティが一曲ずつ作曲した楽譜本を企画しました」

「ふつう楽譜と言うと楽譜屋さんから出版されますが、この作品がユニークなのは、いわゆるファッション雑誌からの注文で作ったというのが特徴なんです」

「サティに音楽之友社とか全音出版とか、そういったところからオファーが来たのではなくて(笑)、インファスとかマガジンハウスとか、そういったところから注文が来たわけで(笑)・・・まずはそれがどんなものであるか何曲かお送りします」

———-(『スポーツと気晴らし』から『ブランコ』『ヨット遊び』『海水浴』『ゴルフ』『テニス』を演奏。シャルル・マルタンの画を映しながら)

「5曲抜粋してお送りしました」

「見てもお分かりだったと思いますが、静止画にサティが短い音楽を作った。どの曲もとってもキネティックで情景が浮かんでくる動きのある音楽だったと思うんですけれど、実はそれには理由がありまして、1曲1曲に詩というかテキストが付いているんです。それが非常に音楽に貢献していて、実はこの作品というのは画と音とテキストの部分というのが多分に三位一体に絡み合っていて、今日はそのあたりをお話しようと思っているんですけど、その前にこの作品にはいろいろな要素がつまり混みすぎていて、ちょっと猛スピードで説明しちゃいます。そもそも『スポーツと気晴らし』はどういう本かというと、これは我々が所有している実際に出版された中の1冊なのですが」

1527134_491610324314275_6001609372421555503_n「最近やっと某所で入手できて、喜び余ってFacebookに『念願の!』と書いたのがこれなんですけど(笑)、ポートフォリオの中に画と楽譜が詰まっているんです」

———-(オリジナルの『スポーツと気晴らし』を映す)

「本と言っても綴じてなくてバインダーみたいなものに入っていて、当時こういうのは多かったんですけど、たくさん見えているのは楽譜なんです。この楽譜もサティの手書きの楽譜を複製したのが入っている。少し見えているのがさっきスライドでお見せしたファッションプレートで、実はこれが全景はこういう風になっていて、原色のフルカラーのプレートが20枚それから楽譜が20枚に(序文の部分が1枚、全部で41枚)、非常に貴重な作品なんです。今で言うちょっと前に流行ったマルチメディアのCDブックみたいなそんな感じですね、画と音による。それの先駆けをすでに100年前に作っていた」

「その出版形態なんですけど・・・まずこのフルカラーのものはポショワールといって銅孔版画、銅に穴を空けて型紙を作り、色をおいて行くという、非常に手間のかかった、当時はファッションを伝達するのにこの印刷の技術で作られていたんです。フルカラー全部入っているのたった225部しか出版されなかった。廉価版としてこのプレートは1枚しか入ってなくて楽譜は全部入っているというのが675部」

「残念なことに我々が持っているのはこの675部の方なんです。このフルカラー版というのは現在相当な金額で取引されていて、いろいろな人が血眼になって探しているというものです。そもそもこの作品の経緯なんですが、さっき『ガゼット・デュ・ボントン』というファッション雑誌の編集者が企画したと言いましたが、最初は・・・」

「最初はシャルル・マルタンの20枚の画に、音楽はストラヴィンスキーに付けてもらおうと頼んだんですけれども、ストラヴィンスキーはそのころ売れっ子で、シャネルなんかと付き合っていたというのは映画での話ですけれど(笑)、その位派手な世界にいて、結局お金で折り合わなくて・・・」

「相当な額を提示したんだけど、そんなんじゃできないと断られたそうなんですね」

「で、サティのところに・・・」

「編集者がどうしよう、誰がいいんだろうねって知人に尋ねたら、サティがいいんじゃないかって紹介されたのでサティにオファーした。で、サティはストラヴィンスキーに比べてぜんぜん売れている作曲家ではなかったので、少しフィーを下げて提示をしたんだよね」

「それにもかかわらずサティはこんな高い金額では引き受けられないって言って、金額を下げさせて・・・」

「不当に高すぎるって怒ったんだよね(笑)」

「下げてこの仕事を受けた(笑)」

「実はそれが後の美談になっていて、やっぱりサティはお金で動く人ではないと言われているんだけど、いろいろ調べていったらそうとばかりは言えなくなってきて・・・そのギャラ下げ交渉というのは後々とても有利な展開に進む・・・そのことについては一番最後に覚えていたらお話しますけど(笑)、とにかくそういう中で1914年に一気に作曲したんだよね。でも出版されたのはその10年後の1924年」

「第一次世界大戦がおきたために一時中断して出版が10年遅れた。なるほどそれは無理も無い、ということで、ただただ納得してたんですが、その間に何があったかを調べ始めたら今回いろんなことが分かってきたわけです」

「そもそも『スポーツと気晴らし』は『ブランコ』『狩』『イタリア喜劇』『花嫁の目覚め』『目隠し鬼』『釣り』『ヨット遊び』『海水浴』『カーニバル』『ゴルフ』『たこ』『競馬』『陣取り遊び』『ピクニック』『ウォーターシュート』『タンゴ』『そり』『いちゃつき』『花火』『テニス』、ようするにいろんなスポーツと余技」

「スポーツとエンターテーメント」

「どうしてこれがスポーツなのかというのものもタイトルの中に入っています。それは100年前のスポーツの概念というのは全然今とは違っていて、もっと前にさかのぼると、スポーツの語源ってディスポートっていって、ディスポートがスポーツに転じているんです。で、ディスポートというのは17世紀くらいに使われていて、ディス、つまり何々ではない、もしくは何々から離れる、ポートとは働くだから、ようするに働くことから離れることがスポーツ。つまり、働く以外は全部スポーツだという概念だったんです」

「だからこの当時も遊ぶというと狩りに行くとか、この中にも『いちゃつき』という曲があるんですけれど、女の子とデートするというのもスポーツだった。ていう名残があってスポーツの語源までさかのぼると、これが当時20世紀始めくらいはスポーツとして認識されていたということです。例えばこういう目隠しをして遊んでいるのも・・・」

———-(『目隠し鬼』の画を映す)

「これも男と女の戯れですよね。これもスポーツ。次に『ゴルフ』」

———-(『ゴルフ』の画を映す)

「この画の女性はおっぱい出しちゃってますね。これもスポーツ(笑)。そして『いちゃつき』」

———-(『いちゃつき』の画を映す)

「恋の戯れもスポーツの中に入るというような、今でいうスポーツの認識とはかけ離れていたということです」

「で、これが件の『ガゼット・デュ・ボン・トン』の表紙です。これは1912年にルシアン・ヴォージェルという編集者が、この人すごい編集者で、さっきも言いましたけれど『ガゼット・デュ・ボン・トン』は1925年まで発行されて、後に『ヴォーグ』に吸収された」

「その後ルシアン・ヴォージェルは『ヴィ』っていう世界初の写真雑誌を創刊する。『タイム』の先取りみたいな。そういう優秀な編集者が創刊した雑誌なのです。この雑誌の中にはこういうファッションの提案、今と同じですね。写真じゃないっていうだけで」

「ファッションっていうのは19世紀までは洋服のせいで差別されたり、洋服って自分のアイデンティティと密接な命がけのものだった。ところが20世紀になると、ファッションは見た目だけのものに変わっていき、気分でどんどんいろんなファッションを取り入れる、という現代のファッションに近づいていったんですよね」

「ちょうどそうした兆しの頃に人気があった雑誌なので、今のファッション雑誌がやっているようなこと全て織り込まれているんです。例えば単に服を紹介するんじゃなくて、ライフスタイルを提案したり。バカンスの季節になると、今年はこういうところに行くんだったらこういう洋服を着ていったらどう?なんていう提案したり、これが100年前くらいのファッション雑誌ですから!」

「当然この中にもスポーツする時のファッション、テニス、乗馬。乗馬ももうものすごくファッショナブルにやっていて、最近のファッション雑誌に近いようなイメージになっています。コンセプトとしてはこの雑誌は、上流階級の生活を取り入れて楽しもうと読者に提案しているわけです。セレブのプライベートを紹介する今のファッション雑誌と変わらない感じですね(笑)」

「これはシトローエンのコマーシャルのページ。いわゆる記事広告。当時この雑誌で人気のあったイラストレーターがシトローエンを入れ込んでファッションを描いている」

「イラストレータは何人かおりまして・・・。さっきの綴じている雑誌に毎月10枚くらいファッションプレートという厚紙の写真カードみたいなのが付録でついていて、それをファッションプレートっていうんですが、それがとても人気があって飾ったりピンナップするという。それが『スポーツと気晴らし』につながっていくんです」

「これはシャルル・マルタンが描いた『ガゼット・デュ・ボン・トン』のためのファッションプレート。他にもいろんな絵師がいますね」

「これがジョルジュ・バルビエのファッションプレート。それぞれのイラストレーターにはキャッチコピーみたいなのがついていて、さっきのシャルル・マルタンのは『アールデコに向かう男』。このジョルジュ・バルビエって言うのが『ロココ華やかな世界を誘う男』。もう1人有名なのではアンドレ・ドゥルマージュ・バルジニっていう人です。この人は『ネオクラシックを追求する男』(笑)。こういう人気のあったイラストレーター達が、当時のオートクチュールのメゾンのランバンとか、今も残っているブランドが立ち上がった頃に、そういうデザイナー達の服をファッションプレートに描いていました」

「ちょっと前までは・・・、これはコルセットの呪縛が取れていない1902年の社交界のドレスの画なんですけれど・・・、こんなファッションでした。それがちょっとずつ・・・これなんかもう車に乗り始めている。このあたりのファッションの変化というのは、今回の『スポーツと気晴らし』と密接なので、あえて見ていただいているんですけれど」

「さらに、これはマルセル・プルーストの本ですが、プルーストは20世紀を代表する有名な作家ですけれど、『失われた時を求めて』です。フランス語で3000ページ。日本語約400字詰め原稿用紙1万枚というすごい長編で、7編14冊だったかな」

「フランスの方なんか名刺に『私はプルーストの、失われた時を求めて、を完読しました』と書いている人がいるって聞いたことがあるんですけど、その位全部読むのはとても大変な書物なんですが」

「なんでプルーストかというと、『失われた時を求めて』の第2編に『花咲く乙女達の蔭に』っていう章があって。そこにノルマンディのそばの架空の避暑地バルベックに、主人公がバカンスに行くくだりがあるんです。避暑地バルベックの海外沿いにはグランドホテルが建っていて、そこに来ている上流階級のご婦人たちのファッションってが、さっきお見せしたコルセットの呪縛そのまんまのドレスを着てたりするんです」

「ところがそこに堤防の向こうから一風変わった集団がやって来ます。主人公は『この娘達はなんだ?』と釘付けになります。彼女達は貴族の出ではないブルジョアの新興の金持ちのお嬢様達で、避暑地に遊びにきている集団なんです。その子たちのファッションっていうのは当然全然違う、見たことがないって主人公は思うんです」

「自転車に乗っていたり、ゴルフクラブを持っていたり・・・、そんな彼女たちを意識しつつ、さっきの『ガゼット・デュ・ボン・トン』のページに眺めてみると、まさにそこにはプルーストがバルベックで見た娘達のような新しい中産階級のブルジョアジーがファッションを楽しむ姿が描かれているわけです。そういう背景があるので、『スポーツと気晴らし』にも当時のとてもモダンな風俗が描き込まれているわけです」

「ではさっき聴いていただいた『ブランコ』という曲をもう少し掘り下げてみたいと思います。さっき画と音楽と、さらにテキストが入っていると説明したんですが、テキストの部分を取り出してみてテキストに何が書かれているか、この画と対になる楽譜がこれです。さっきはこの楽譜を見ながら演奏したんですが、ここの楽譜の余白にフランス語でテキストが書かれています。この内容を日本語に訳したのを見てもらいます」

10334277_491610367647604_5560046741062767122_n———-(『ブランコ』を流しながら日本語でテキストを出していく)

「さっきの曲には実はこういうテキストが添えられていて、これは歌うための詩ではなく朗読するためのものでもなく、サティはこのテキストを音楽と共に吟じることを禁止しています。ではなんのためにこのテキストはあるのかというと」

「これはピアニストに向けてサティが書いたものですね。ピアニストがこのテキストを読みながら、これをどういう風に弾いていくかという演奏上の解釈のために書いた」

「結局このテキストを読めるというのは楽譜見ている人だけ。サティが吟じることを禁止しているからね。つまりピアニストだけがこのテキストを見ることができる。だからサティが演奏家に向けたプレゼントというか。でもとても重要な世界観を現していて、しかも詩としても成立している」

「それからこの曲に言えるのはブランコの揺れる運動をミの音の2オクターブの反復で表現しています。だから音楽だけ聞いていてもとてもキネティックな動きをしている」

「さらにそこにブランコに乗っている画なんだけど、揺れているのは私の体ではなくて心だよ、というような恋愛の歌というか詩です。そんなのをサティはさっきの画が先にあってそれに音楽を付けた、画からサティが引き出したということになっています」

「次に『ヨット遊び』。これもさっき見ていただいたものですが気持ちのいい青空のもとでヨットに乗っているんだけど、この端にいる人は気持ち悪くなっている。このテキストも曲も、画のここにフォーカスされているというのを日本語訳でテキストを見ながら聴いていただきます」

———-(『ヨット遊び』を流しながらテキストを出していく)

「さっき画を見ながら曲を聴いて、若干違和感をもたれた方もあったと思うんですが、あの青空にヨットが気持ちのいい画にしては、この出だしのオクターブの動きとか暗いし蓋を開けてみたら詩もこんなんだったりして、なんでこんなに暗いんだろうなと思ったら、最後の方に『こんなとこにいたくないわ。ヨットに乗った美しい女性がいう』」

「さっきの画の端にいた気持ち悪くなっている女性をテーマにしたのかな、それにしては全体の画とちょっと曲想が違うよな?、という違和感はずっと感じていたんですが、それがサティのすごいところだろうと、あの明るい画からこういう部分を抽出しちゃうサティってすごいよねって、我々も思っていたし、みんなも思っていた」

「続けてもっと画と音楽が会わない『海水浴』」

「爽やかにスポーツしているんですけれども」

「とても凛々しい健康的な男女がそれぞれ自立してくっつかずに海で楽しんでると言う、とても現代的な画なんだけども、楽譜見てもわかるように大波で荒れ狂っているんです。曲をかけますと」

———-(『海水浴』を流しながらテキストを出していく)

「こういうもんなんだ。サティならここまでやるだろうと。あの爽やかな画の中にある何か暗いもの・・・違和感あるけどこれがサティなんだということで」

「今回すべてのテキストを訳し直したんですが、直訳に近い訳をあえてやっています。今まではこうした画についているテキストだからっていうんで・・・やっぱり直訳でなくて自分なりに解釈して意訳してしまっている、歴代の先生方もそうですし、私たちもそのように訳していました。どうしてもさっきの画から想像すると、このようになるだろうということで・・・」

「でも今回は画とミスマッチ承知で、あえて直球で訳してみました。それはちょっと最後に述べる理由があるからなんです」

「さて、次はもっとすごくて『ゴルフ』っていう曲で、さっきのおっぱい出しちゃいましたっていう画なんだけど・・・」

———-(『ゴルフ』を流しながらテキストを出していく)

「『このクラブが飛んで行く』楽譜もビジュアル的に面白く作られていて」

「そうですね。楽譜を見ただけでゴルフのクラブが飛んでいくような」

「ところがこの大佐殿っていうのはどれが大佐なんだ?とか、あえて描いていないものでもサティは音として書いていたり、そもそもクラブとか飛んでいないですもんね?」

「唯一左上の人のクラブの頭がないなぁ、とは思っていたんですけど」

「この画の世界をサティは音楽でものすごく膨らましたというのですごく評価されています」

「次は『テニス』です。これは音の面白さということで選んでみたのですけど」

———-(『テニス』を流しながらテキストを出していく)

「これがすごく面白いんですよ。スタッカートでボールをつく感じを表現したり、ここのサーヴする前にボールをついて集中する感じとか、とてもキネティックに作っている」

「実はですね、さっきからしきりと言っている違和感、画とテキストと曲想に感じる違和感。その理由が見つかった!!・・・というのがここからのテーマです。それは意外なところから見つかったんだよね」

「今までサティはフランス人なのでフランスで研究された文献とかあたっていたのですけど、最近そうでもなくてフランスよりドイツとか」

「イギリスあたりから情報が入ってきていますね」

「我々がCD作る時に協力していただいたイギリスの音楽学者のロバート・オーリッジ氏とか、作曲家のクリストファー・ホップス氏とか、みんなすごい研究してますよね。で、イギリスでこういうものが最近発表されたんですね」

———-(一冊の本を見せる)

「さっき1914年にシャルル・マルタンが画を描いてそれ見てサティが曲を作って、出版が1924年になったっと言いましたが、じゃその10年の遅延は何だったのかっていうと、ちょうど第一次世界大戦が1914年に起こったので、それで出版が延期になったと、何を読んでもたった一行そう書いてあるわけです。その一行を我々も『なるほど』、『それは無理ない』と長い間思っていたんです」

「ところが実は延期になった間の、1922年から23年にかけてシャルル・マルタンは画を書き直してたんだよね。彼は第一次世界大戦から帰ってきてからあらためて1914年に書いた画を見て、そしてサティが書いた曲とテキストを見て、新たに書き直したんだよね。で、出版された画というのはその書き直された画だったわけです」

「つまりサティは我々がよく知っているあの画を見て曲を作ったのではなかったってことがわかったんです。実はこっちを見て曲を作ったんだと・・・。衝撃の1914年の元画がこの本に載っています。比較的ひっそりとだけど(笑)」

「シャルル・マルタンは、これは私たちがオリジナルの『スポーツと気晴らし』を入手した古書日月堂の店主の佐藤真砂さんから教わったことなんですけど、(古書日月堂というのは)青山にある美術関係の本を扱っている素晴らしい古本屋さんなんですけど、マルタンは第一次世界大戦で塹壕戦に投入されていて、第一次世界大戦ってあれで戦争の概念が全然変わっちゃったほど凄惨だったわけで、塹壕戦でPTSDとかになって帰ってきた兵隊さんいっぱいいたんですよね。彼もそれでずいぶん作風が変わってしまった。ファッションプレートの中に政治的なものを描いたり。で、これがですね、その1914年にマルタンが描いた元画なんです」

———-(客席からどよめき)

「これ(1914年の元画)を見てサティは、まずテキストを書いたわけです。そのテキストから音楽を立ち上げていった」

———-(『ブランコ』の元画と二つ並べて映す)

「見比べるとよくわかるんですけど、ふたりしか左の1914年版(の元画)には描かれていない。右(1924年に出版された画)にはもういろんな人がいて。左(元画)は平面的な、例えばさっき見ていただいたバルビエとかが描いていた古い時代のファッションプレートまんまの構図なんですが、右はキュビズムっていうか画風が変わちゃってるんですね」

「例えばさっきのテキストもですが、ブランコに揺れている女の子の詩なんだろうと思っていたんですが、実はふたりの男女がこうやって遊んでいるところの詩なんだと思うと、揺れ動くというのが」

「揺れ動いているのは二人の関係のように思ったんですけど、揺れ動いているのはたんに自分の心であって、その心っていうのは彼の方に行ってしまうのではなく、自分の心の方へ戻ってきたいのかしら、と」

「さっきのちょっと問題があった『ヨット』ですが、この元画というのがこちらで。これも衝撃でしたね」

「これだったらサティがあのような曲を作るのもすごくよくわかるし」

「詩は?」

「ひどい天気! 風はアザラシみたいに吠える
 ヨットは踊り まるで狂ったようだ
 海は荒れ狂う 岩に当たって海が割れなきゃいいんだけど
 海をもと通りにするなんて誰にもできやしない
 こんなとこに居たくないわ
 ヨットに乗った美しい女性が言う
 ちっとも面白くないじゃない
 もっと他のことをしたいわ
 誰か車をとりに行ってちょうだい」

「マスト倒してますもんね。嵐だから倒しているんですね、船長が。この彼も彼女も気持ち悪くなっちゃってて、この太っちょの水兵さんが」

「あんた達だいじょうぶかー、って薬か水かなんかを持ってきてくれている画ですね(笑)」

「悲惨なデート!って感じですね(笑)。彼女が『誰か車をとりに行ってちょうだい』と叫んじゃう気持ちがよくわかる画です。青空は全然ない」

「もっと衝撃だったのが『海水浴』」

———-(『海水浴』を演奏)

「海は広いんですよ、マダム それに、充分に深いんです」

「ちょっとメロドラマのフレーズにも聞こえてくるような。ただならぬ男と女の関係が描かれていてこの画では男女が抱き合っていますよね」

「本来の画(1924年に出版された画)ではすでに海水浴が競技みたいにあつかわれていて、まさにそうなんだよね。大きな違いがあって完璧に現代の遊び、スポーツになっている。でも元画には前の時代の海水浴のなごりがあるんだよね」

「湯治ですね」

「昔は海って体の悪いところを治すために行った。だから水着ではなくて、洋服のまま海に浸かって。温泉に行くみたいなもんですよね。湯治場で出会った男女が、『海は広いんですよ、マダム』、ま、口説かれているようなもんですね(笑)」

「ここにも恋愛を絡めている(笑)」

「それにしても1914年版の元画がもたらす『スポーツと気晴らし』の種明かしは衝撃の連続ですね。これもそうで『ゴルフ』」

「元画にはちゃんと大佐が居ましたね。ボールが飛んで行く代わりにクラブの頭が飛んで行く様子がちゃんと描かれていました」

「これが1914年、こちらが1924年。この10年の間に女性はゴルフを観戦するのではなく、自分でやるようになった。シャルル・マルタンとルシアン・ヴォージェルは、そうしたライフスタイルやファッションの変化を、10年間の変化を、着実に感じて、あらためて描き直したんだと思います」

10376920_491610627647578_8930863410388633238_n「でも音楽は作り直されなかったため、10年前の画にインスパイアされて生まれた10年前の音楽が、10年後に書き直された画と合わさって出版されてしまったわけです。なので必要以上に人を煙に巻くような作品になっちゃったわけです、偶然に」

「お話が長くなってしまいましたがこれはどうしてもお伝えしたかったんでお話ししました。続きは残りの『スポーツと気晴らし』を聴いていただいてからお送りします」

———-(『スポーツと気晴らし』を演奏)

———-(ところがこのあとのトークは時間切れのため途中で中断。以降は2015年7月4日開催の『エリック・サティ エキセントリック・ピアノ&トーク・ライブ Vol.4』に続きます)

■ [Text] 柴野さつきによるミニオペラ エリック・サティ ブラバンのジュヌヴィエーヴ(ジュヌヴィエーヴ・ド・ブラバン)

e38397e383ace38393e383a5e383bc0012010年公演時のプログラムより転載

ごあいさつ

本日は、エリック・サティのミニオペラ「ブラバンのジュヌヴィエーヴ(ジュヌヴィエーヴ・ド・ブラバン)」の公演にご来場いただきまして、ありがとうございました。

サティを弾き続けて約30年になりますが、ずっと存在を知りつつも手に入れることができなかったピアノ版「ブラバンのジュヌヴィエーヴ」の楽譜を、大貫美帆子さんが持って現れた時には思わず小躍りしました。

いつか必ず上演したいと願っていたことが、長年の音楽仲間である尾島由郎さんの呼びかけで次々と心強いメンバーが集まり、今日の日を迎えられたことに感謝の気持ちでいっぱいです。

また上演が決まってからも、この作品があまりにも数奇な運命を辿っていたために、構成面での変更が続出しました。それにもかかわらず、辛抱強く、粘り強く、そのわがままを聴き入れ、お付き合いいただいた丹下一さんに、そしてこの公演に関わってくださったすべての方々に心からの御礼を申し上げたいと思います。

今宵、山高帽をかぶったサティが、この会場のどこかに座りながら、日本人には馴染みの薄い「ブラバンのジュヌヴィエーヴ」を、どれほどパロディにできるかを面白がりながら見守っているような気がします。それでは、みなさま、どうぞ日本初のミニ・オペラ「ブラバンのジュヌヴィエーヴ」を、愉しんでいただけますように!

柴野さつき

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「作品について」一片のポエジー

サティは、自由な「戯れ」や「遊び」の感性をもっていて、精緻な理知によってそれらを損なわずに作品化し、規格や定義に容易に回収できない優れた自由空間を現前させることができた作曲家であったのではないか、という印象を私は持っています。慣習にとらわれなかったのと、自己陶酔や感情で、求める美や真理がみえなくなることを嫌った探求者であったために、生前は変わり者としてしばしば誤解され、真価がまだ十分には解明されていない不思議な作曲家なのではないかと思います。

そんなサティが作った(影)人形たちが歌うというユーモラスなオペラ「ブラバンのジュヌヴィエーヴ(ジュヌヴィエーヴ・ド・ブラバン)」は、サティらしい自由闊達な「戯れ」の精神がいきいきと発揮された作品であるのではないかと思い、興味を引かれ楽譜を探しました。いつか上演したいと思いながら、この楽譜を柴野さつきさんにお見せしたところ、とても興味を持って話を進めて下さり、さまざまな実験と協力を得て上演が実現しました。調べてみるとこの作品は、やはり気負って芸術的傑作を、と創られたものではなく、むしろ、のびのびとした遊びの精神の中から生み出された作品のようでした。台本の作者で詩人のコンタミーヌとサティは、若い頃から気が合い夜昼なくつきあって、まともな服が二人分ないために、交代でしか外出できないときもあったといいます。そんな二人のちょっとした悪ふざけから生み出された作品なのではないかと考えられています。

「遊び」といっても、遊びというのは、人間の創造の根幹の純粋な源泉のような部分だと思います。遊びというのは強制されてはできないので、自発的、内発的な時間です。「ブラバンのジュヌヴィエーヴ」はのびやかな遊びの精神から生まれた「戯れ」(フランス語で表現するとすればジュ・jeu)の純度の高い作品なのではないかと思えます。

例えばjeuの世界を表すのに、ボール遊びやチェス遊びの動きなどが考えられます。チェス盤の上では日常とはちょっと違ったルールによって動きが作られます。この作品はナレーションも、歌も、日常的な説明的な言葉の文法から少しはずれた規則をもつ韻を踏んだ詩的言語によって構成されています。(分かりやすいところでは群衆の歌はton, carton, chantons など「トン」という軽やかで楽しげな印象を与える音の連続から作られています)日常的な文法ルールではなくて音が韻を踏んでつくられた言葉のルールから構成されています。日常言語とは、少しずれた秩序のなかで創られた一種次元の異なるポエティック雰囲気をもった世界だと思います。

また、サティたちは、「ジュヌヴィエーヴ」という歴史的にも重みがあり、教訓たっぷりの話を、極端に倹約した音で3幕という一種苛烈な簡潔さの中に放り込んで無化するように、ぺらぺらのボール紙人形に歌わせて、軽快な弾むような音楽を作っています。とてもミニマルな作品だと思います。なぜミニマルな表現をするかというと、文化的な意味の重荷や呪縛を撥ね飛ばし排除した自由空間を作りたいからではないかと思います。サティたちは、「ジュヌヴィエーヴ」という強固な伝説の枠、ルール、形式を借りてきて、その中で、例えばチェス遊びをするような戯れに満ちた時空間を作っているのではないか。登場人物たちは、一生懸命歌ったりしますが、どこか人間的な重みからは自由になった、ちょっとユーモラスでおかしい、おもちゃや精霊のようなものたちの雰囲気があります。

また「戯れ」の動きは、人間の生命力に深いところで関わり、硬直した世界を揺さぶって、聖なる次元を媒介するのだと思います。(…例えば七夕などの風に揺られる短冊が「戯れ」の動きをし、願いを天上に届けるとされるように…。)この作品は通常の聖女ジュヌヴィエーヴの大真面目な聖性の表現はとっていませんが、結果としては無垢な聖性の別なアプローチを体現することになっているのだと思います。

この作品の時空間は、あえて特定の意味に真直ぐに還元されてしまう何かではなく、音楽と、言葉と、事物の詩的な戯れによって満たされた時空間なのではないでしょうか。一瞬で終わってしまい、思わず忘れてしまうほどの短い作品ですが、人の時間の中には、そんな、子供の遊びのように天使的で全肯定的な無垢な時間が、そっと贈られているのかもしれない、と思いました。

Tex by 大貫美帆子

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不思議な出自と運命に彩られた
エリック・サティの『ブラバンのジュヌヴィエーヴ
(ジュヌヴィエーヴ・ド・ブラバン)

●オリジナル版に沿った日本初演
世の中広しといえども、エリック・サティ(1866-1925)のミニオペラ『ブラバンのジュヌヴィエーヴ(ジュヌヴィエーヴ・ド・ブラバン)』ほど不思議な出自とねじれた運命に彩られた作品というのも、極めて珍しい。

“柴野さつきによるミニオペラ公演『エリック・サティ作曲-ブラバンのジュヌヴィエーヴ』”の公演を検討しはじめたとき、まだ柴野さつきを始めとするプロデュース・チームの間では、“操り人形劇のための舞台音楽作品”だろうと考えていた。

しかし、近年、1989年に完全な形として出版された楽譜自体には、操り人形劇であるという指示は見あたらない。楽譜の解説には、作品に登場する群衆が自分たちのことを「ボール紙でできているけれど」と歌うことから、影絵芝居のために書かれたのではないかと推測している記述がある。これは遺作なので、サティたちが何を意図したのか本当のところは分からない。それからプロデュース・チームの間では、どのように上演したらよいものかの思案が続くこととなった。図書館に行って古い楽譜を見つけ出したり、インターネットで資料を探したり、フランスからDVDを取り寄せたりする過程を経ながら上演プランを練り、ピアノと歌によるオリジナル版に沿った公演が、日本で初めてであるということも分かってきた。

●ピアノの背後から発見された楽譜
そもそもの初めからして、『ブラバンのジュヌヴィエーヴ』はぼんやりとした謎に包まれている。サティが書いた楽譜は、彼の死後、彼の部屋のピアノの背後に隠れていたものが発見されたというのである。故意に隠されたものなのか、あるいは単に背後に落ちて忘れられていただけなのかは、今となっては定かではない。
生前はだれも入れなかったというその部屋に、サティの死後最初に入った1人であるダリウス・ミョーが、『ブラバンのジュヌヴィエーヴ』の楽譜をピアノの背後から発見したと証言している。
サティの発見された楽譜には、歌詞が既に書き込まれていた。ところが、そのサティが作曲した歌詞の作者が当初はわからず、サティの死後1929年にはじめてこの楽譜が出版された際には、コンタミーヌのオリジナルの台本もまだ見つかっていなかった。後にサティのはじめての評伝作家 P・D タンプリエによってこの作品が、コンタミーヌによる台本だと言及されるようになったようだが、オリジナルの台本が発見されたのはごく近年の1980年代頃になってからだったのである。

●『ブラバンのジュヌヴィエーヴ』とは?
この話を先に進める前に、『ブラバンのジュヌヴィエーヴ』とは、一体どういうものなのかについて触れておきたい。これには幾つもの異なる伝承があるのだが、「ブラバン家のジュヌヴィエーヴ侯爵夫人」、あるいは「ブラバン地方に産まれたジュヌヴィエーヴ」といった意味に解釈するのが一般的で、13世紀から19世紀にかけて大衆の間に広まっていた伝説に基づいている。
基本的な登場人物は、“シフロワ侯爵”、“ジュヌヴィエーヴ公爵夫人”、“執事のゴロ”、それと1匹の“牝鹿”であり、それに兵隊と群衆が加わってストーリーに膨らみがもたらされている。
メインの粗筋は、侯爵が戦争に出かけている間に、後を任された執事のゴロがジュヌヴィエーヴ公爵夫人を誘惑しようとして失敗するところから始まる。シフロワ侯爵が戦争から帰宅すると、ゴロは拒絶された恨みから、料理人と彼女が不倫を犯したとウソの密告をして侯爵を籠絡する。すると、ジュヌヴィエーヴは無実の罪をきせられ死刑を宣告されてしまう。ところが可哀想に思った兵士に助けられ、森に放置される。森の中で侯爵の赤ちゃんを産んで、神から使わされた牝鹿の乳で子供が育てられる。子供向けのストーリーでは、赤ちゃんを産むのではなく、ジュヌヴィエーヴの孤独を癒すために天から男の子がやってきたりする。
やがて森に鹿狩りをしにきた侯爵とジュヌヴィエーヴが出会い、彼女の身の潔白が明らかとなり、今度はゴロが死刑の宣告を受けてしまう。ゴロが、死刑執行人に生皮を剥がされるという筋書きのものもある。助け出された彼女は、復権を果たしたのも束の間で、心労がたたったのかすぐに死んでしまう。それまで献身的に彼女に尽くしてきた牝鹿も後を追って死んでいく。これが何百年もの間、ヨーロッパ各国の庶民の間に広く流布して来たというのは、そのお涙ちょうだいの哀しいストーリーが、もちろんその時代のいろいろな背景というものも考慮に入れなければならないのだが、感情移入をし易かったからではないだろうか。

●パロディとしてのミニオペラ
しかし、後に発見されることになるサティ版『ブラバンのジュヌヴィエーヴ』の台本を書いたシュミノ卿(J・Pコンタミーヌ・ド・ラトゥール)のストーリーでは、森の中で赤ちゃんを産むことはないし、復権してから死んだりもせず、最後はめでたく幕を閉じる。サティもシュミノ卿も、『ブラバンのジュヌヴィエーヴ』をお涙ちょうだいの哀しい物語とするよりは、パロディとしてちょっとしたお遊びをやりたかったのではなかっただろうか、という推測が成り立ってくる。その証拠に、ミニオペラの最後は、群衆の歌声が「さあ、これでお終い、めでたし、めでたし、お終い」と歌って、感傷に浸る余裕を観客に与えることなく、突然ぷつんと切れて大団円を迎える。
こうした終わり方を可能とするには、『赤ずきん』の童話のようにだれもがその基本となるストーリーを知っていることが前提条件となる。既に『ブラバンのジュヌヴィエーヴ』をテーマとした音楽は、ハイドンがカンタータを作曲し、オッフェンバックは喜劇のオペラを書き、シューマンも唯一のオペラ『ゲノフェーファ』で取り上げている。
しかし、当時最も一般大衆になじみがあったのは、リュリのオペラ(Atys)で歌われた作者不明の『聖ジュヌヴィエーヴの聖歌』であったようである。また、フランスにおいては、イラスト入りの民衆版画(l’imagerie populaire)の全盛期に、その聖歌のテキストの何千ものコピーが、定期市や教会の入り口で配られたことが、ジュヌヴィエーヴの物語を広く知らしめることに拍車をかけたようだ。

●サティ、モンマルトルに住み着く
ところでサティは、1887年、21歳前後にモンマルトルに住み着き、『J.Pコンタミーヌ・ド・ラトゥール』というペンネームを持ったカタロニア血筋の詩人と気が合い、彼の詩をもとにした5つの歌曲を作曲している。『ブラバンのジュヌヴィエーヴ』は日付が明確ではないのだが、1900年頃に作られたものと推測されている。
サティが出入りしていた当時のモンマルトル界隈といえば、丘の上にそびえるサクレクール寺院を中心に、パリコミューン後の復興の槌音が響く中、妖しげな歓楽街が形成されていった場所である。
初期の頃は、ブルジョワたちが密かに女性を匿う場所として知られ、やがて酒や女、目新しい何かを目当てに芸術家たちが集まり、しだいに一般庶民にも広がってサーカス小屋、芝居小屋、芸術酒場としてのカフェ・コンセールが幾つもオープンし、大道芸人やシャンソンなど、雑多な雰囲気が渦巻いていた場所であった。
芸術家たちの人気の場所の一つが、カフェ・コンセールの『シャ・ノワール(黒猫)』だった。1885年から10年間というのは、ここがパリ社交界の名所の一つになっていた。エドガー・アランポーの小説の題名から命名したものだが、まだ映画のような動画がなかった時代、“影絵芝居”が最大の呼び物で、ジャーナリストや詩人、画家や音楽家などが集って大騒ぎを繰り返していた。
サティもまたピアノ弾きとして『シャ・ノワール』に雇われるのだが、数ヶ月後には経営者のルドルフ・サリと喧嘩して辞め、近くの同じようなカフェ・コンセールの『オーベルジュ・デュ・クリュ(釘の旅籠)』に移って伴奏ピアニストとなっている。
サティとシュミノ卿(J.Pコンタミーヌ・ド・ラトゥールという名前でだが)は、他にも共同作業で舞台音楽作品を作っている。その中には、当時のカフェ等で演じられていた影絵芝居を想定してつくられたのではないかと考えられるものもあり、今回のサティの『ブラバンのジュヌヴィエーヴ』も、人形劇として作曲されたというよりは、むしろ影絵芝居を想定していたらしいということが伺えるのである。サティもシュミノ卿も、それが『人形劇』であるなどとは一言も触れていなかったのだが、それではなぜ、今まで人形劇として通ってきたのだろうか?

●初演の人形劇が誤解の原因に
『ブラバンのジュヌヴィエーヴ』がパリのシャンゼリゼ劇場で初演されたのは、サティの死後約1年経った1926年5月17日、ちょうどサティ60歳の誕生日であった。サティのお墓を建立する基金の募集が目的だった追悼演奏会をプロデュースしたのは、エチエンヌ・ボーモンという伯爵で、他のイベントにも名を連ねている。彼は、以前に見たことがあるドンキホーテの人形劇が頭にあったらしく、人形使いや舞台美術を同じスタッフに依頼して『ブラバンのジュヌヴィエーヴ』を人形劇として上演したのだった。以後、それは、“人形劇”であるという誤解の固定観念を人々に植え付けた原因となったようである。
楽譜はピアノの背後から見つかっていたのだが、まだ台本のト書きがあることが知られていなかったのか、数年後の1929年に出版された楽譜には、民衆版画から抜いた『聖ジュヌヴィエーヴの聖歌』が代わりに当てられていた。
それではほぼ50年後に、どこから韻文と散文からなる3幕ものの台本が出て来たのかというと、サティの追悼演奏会で初演をプロデュースしたそのボーモン伯爵の書類の中から見つけ出されたのであった。それがいつ頃どういう経緯でそこに漂着したのかは、今ではまったく知る由もないが、それは質素な32枚の紙に、読みにくいコンタミーヌの文字が、緑色のインクで書かれ、標題には音楽がエリック・サティによるものであると書かれていたようである。
こうした長い紆余曲折があり、1冊の楽譜の中に曲と歌詞、ト書きの台本が一緒になって出版されたのは、やっと1980年代に入ってからのことであった。
それにしてもサティの死後、50年以上の長い道のりを経て、曲と台本が一緒になるなんて、幾らサティが諧謔家で自己韜晦に満ちていたとしても、あまりの不思議さに思わず目まいがしてくるほどだ。改めて、サティが、「ご苦労さま」と下界を見下ろしながら、微笑んでいる様子が彷彿としてくるのである。

Tex by 柴野利彦(画家・写真家)

主な参考文献
楽譜「Genevieve de Brabant」序文 Ornella Volta UNIVERSAL EDITION 1989
楽譜「Genevieve de Brabant」 UNIVERSAL EDITION 1958
「Le rideau se leve sur un os」Ornella Volta
漫画『Genevieve de Brabant」 LES EDITIONS MODERNES 1937
「キャバレーの文化史」ハインツ・グロイル著 ありな書房 1989
「Exposition Erik Satie」オルネラ・ヴォルタ監修 2000
「エリック・サティ覚え書」秋山邦晴著 青土社 1990
「サティ イメージ博物館」オルネラ・ヴォルタ著 音楽之友社 1987

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柴野さつきによるミニオペラ エリック・サティ ブラバンのジュヌヴィエーヴ
初演:2010年 6月25日(金)
再演:2010年10月23日(土)
会場:横浜人形の家 あかいくつ劇場