■ [Text] 柴野さつきによるミニオペラ エリック・サティ ブラバンのジュヌヴィエーヴ(ジュヌヴィエーヴ・ド・ブラバン)

e38397e383ace38393e383a5e383bc0012010年公演時のプログラムより転載

ごあいさつ

本日は、エリック・サティのミニオペラ「ブラバンのジュヌヴィエーヴ(ジュヌヴィエーヴ・ド・ブラバン)」の公演にご来場いただきまして、ありがとうございました。

サティを弾き続けて約30年になりますが、ずっと存在を知りつつも手に入れることができなかったピアノ版「ブラバンのジュヌヴィエーヴ」の楽譜を、大貫美帆子さんが持って現れた時には思わず小躍りしました。

いつか必ず上演したいと願っていたことが、長年の音楽仲間である尾島由郎さんの呼びかけで次々と心強いメンバーが集まり、今日の日を迎えられたことに感謝の気持ちでいっぱいです。

また上演が決まってからも、この作品があまりにも数奇な運命を辿っていたために、構成面での変更が続出しました。それにもかかわらず、辛抱強く、粘り強く、そのわがままを聴き入れ、お付き合いいただいた丹下一さんに、そしてこの公演に関わってくださったすべての方々に心からの御礼を申し上げたいと思います。

今宵、山高帽をかぶったサティが、この会場のどこかに座りながら、日本人には馴染みの薄い「ブラバンのジュヌヴィエーヴ」を、どれほどパロディにできるかを面白がりながら見守っているような気がします。それでは、みなさま、どうぞ日本初のミニ・オペラ「ブラバンのジュヌヴィエーヴ」を、愉しんでいただけますように!

柴野さつき

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「作品について」一片のポエジー

サティは、自由な「戯れ」や「遊び」の感性をもっていて、精緻な理知によってそれらを損なわずに作品化し、規格や定義に容易に回収できない優れた自由空間を現前させることができた作曲家であったのではないか、という印象を私は持っています。慣習にとらわれなかったのと、自己陶酔や感情で、求める美や真理がみえなくなることを嫌った探求者であったために、生前は変わり者としてしばしば誤解され、真価がまだ十分には解明されていない不思議な作曲家なのではないかと思います。

そんなサティが作った(影)人形たちが歌うというユーモラスなオペラ「ブラバンのジュヌヴィエーヴ(ジュヌヴィエーヴ・ド・ブラバン)」は、サティらしい自由闊達な「戯れ」の精神がいきいきと発揮された作品であるのではないかと思い、興味を引かれ楽譜を探しました。いつか上演したいと思いながら、この楽譜を柴野さつきさんにお見せしたところ、とても興味を持って話を進めて下さり、さまざまな実験と協力を得て上演が実現しました。調べてみるとこの作品は、やはり気負って芸術的傑作を、と創られたものではなく、むしろ、のびのびとした遊びの精神の中から生み出された作品のようでした。台本の作者で詩人のコンタミーヌとサティは、若い頃から気が合い夜昼なくつきあって、まともな服が二人分ないために、交代でしか外出できないときもあったといいます。そんな二人のちょっとした悪ふざけから生み出された作品なのではないかと考えられています。

「遊び」といっても、遊びというのは、人間の創造の根幹の純粋な源泉のような部分だと思います。遊びというのは強制されてはできないので、自発的、内発的な時間です。「ブラバンのジュヌヴィエーヴ」はのびやかな遊びの精神から生まれた「戯れ」(フランス語で表現するとすればジュ・jeu)の純度の高い作品なのではないかと思えます。

例えばjeuの世界を表すのに、ボール遊びやチェス遊びの動きなどが考えられます。チェス盤の上では日常とはちょっと違ったルールによって動きが作られます。この作品はナレーションも、歌も、日常的な説明的な言葉の文法から少しはずれた規則をもつ韻を踏んだ詩的言語によって構成されています。(分かりやすいところでは群衆の歌はton, carton, chantons など「トン」という軽やかで楽しげな印象を与える音の連続から作られています)日常的な文法ルールではなくて音が韻を踏んでつくられた言葉のルールから構成されています。日常言語とは、少しずれた秩序のなかで創られた一種次元の異なるポエティック雰囲気をもった世界だと思います。

また、サティたちは、「ジュヌヴィエーヴ」という歴史的にも重みがあり、教訓たっぷりの話を、極端に倹約した音で3幕という一種苛烈な簡潔さの中に放り込んで無化するように、ぺらぺらのボール紙人形に歌わせて、軽快な弾むような音楽を作っています。とてもミニマルな作品だと思います。なぜミニマルな表現をするかというと、文化的な意味の重荷や呪縛を撥ね飛ばし排除した自由空間を作りたいからではないかと思います。サティたちは、「ジュヌヴィエーヴ」という強固な伝説の枠、ルール、形式を借りてきて、その中で、例えばチェス遊びをするような戯れに満ちた時空間を作っているのではないか。登場人物たちは、一生懸命歌ったりしますが、どこか人間的な重みからは自由になった、ちょっとユーモラスでおかしい、おもちゃや精霊のようなものたちの雰囲気があります。

また「戯れ」の動きは、人間の生命力に深いところで関わり、硬直した世界を揺さぶって、聖なる次元を媒介するのだと思います。(…例えば七夕などの風に揺られる短冊が「戯れ」の動きをし、願いを天上に届けるとされるように…。)この作品は通常の聖女ジュヌヴィエーヴの大真面目な聖性の表現はとっていませんが、結果としては無垢な聖性の別なアプローチを体現することになっているのだと思います。

この作品の時空間は、あえて特定の意味に真直ぐに還元されてしまう何かではなく、音楽と、言葉と、事物の詩的な戯れによって満たされた時空間なのではないでしょうか。一瞬で終わってしまい、思わず忘れてしまうほどの短い作品ですが、人の時間の中には、そんな、子供の遊びのように天使的で全肯定的な無垢な時間が、そっと贈られているのかもしれない、と思いました。

Tex by 大貫美帆子

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不思議な出自と運命に彩られた
エリック・サティの『ブラバンのジュヌヴィエーヴ
(ジュヌヴィエーヴ・ド・ブラバン)

●オリジナル版に沿った日本初演
世の中広しといえども、エリック・サティ(1866-1925)のミニオペラ『ブラバンのジュヌヴィエーヴ(ジュヌヴィエーヴ・ド・ブラバン)』ほど不思議な出自とねじれた運命に彩られた作品というのも、極めて珍しい。

“柴野さつきによるミニオペラ公演『エリック・サティ作曲-ブラバンのジュヌヴィエーヴ』”の公演を検討しはじめたとき、まだ柴野さつきを始めとするプロデュース・チームの間では、“操り人形劇のための舞台音楽作品”だろうと考えていた。

しかし、近年、1989年に完全な形として出版された楽譜自体には、操り人形劇であるという指示は見あたらない。楽譜の解説には、作品に登場する群衆が自分たちのことを「ボール紙でできているけれど」と歌うことから、影絵芝居のために書かれたのではないかと推測している記述がある。これは遺作なので、サティたちが何を意図したのか本当のところは分からない。それからプロデュース・チームの間では、どのように上演したらよいものかの思案が続くこととなった。図書館に行って古い楽譜を見つけ出したり、インターネットで資料を探したり、フランスからDVDを取り寄せたりする過程を経ながら上演プランを練り、ピアノと歌によるオリジナル版に沿った公演が、日本で初めてであるということも分かってきた。

●ピアノの背後から発見された楽譜
そもそもの初めからして、『ブラバンのジュヌヴィエーヴ』はぼんやりとした謎に包まれている。サティが書いた楽譜は、彼の死後、彼の部屋のピアノの背後に隠れていたものが発見されたというのである。故意に隠されたものなのか、あるいは単に背後に落ちて忘れられていただけなのかは、今となっては定かではない。
生前はだれも入れなかったというその部屋に、サティの死後最初に入った1人であるダリウス・ミョーが、『ブラバンのジュヌヴィエーヴ』の楽譜をピアノの背後から発見したと証言している。
サティの発見された楽譜には、歌詞が既に書き込まれていた。ところが、そのサティが作曲した歌詞の作者が当初はわからず、サティの死後1929年にはじめてこの楽譜が出版された際には、コンタミーヌのオリジナルの台本もまだ見つかっていなかった。後にサティのはじめての評伝作家 P・D タンプリエによってこの作品が、コンタミーヌによる台本だと言及されるようになったようだが、オリジナルの台本が発見されたのはごく近年の1980年代頃になってからだったのである。

●『ブラバンのジュヌヴィエーヴ』とは?
この話を先に進める前に、『ブラバンのジュヌヴィエーヴ』とは、一体どういうものなのかについて触れておきたい。これには幾つもの異なる伝承があるのだが、「ブラバン家のジュヌヴィエーヴ侯爵夫人」、あるいは「ブラバン地方に産まれたジュヌヴィエーヴ」といった意味に解釈するのが一般的で、13世紀から19世紀にかけて大衆の間に広まっていた伝説に基づいている。
基本的な登場人物は、“シフロワ侯爵”、“ジュヌヴィエーヴ公爵夫人”、“執事のゴロ”、それと1匹の“牝鹿”であり、それに兵隊と群衆が加わってストーリーに膨らみがもたらされている。
メインの粗筋は、侯爵が戦争に出かけている間に、後を任された執事のゴロがジュヌヴィエーヴ公爵夫人を誘惑しようとして失敗するところから始まる。シフロワ侯爵が戦争から帰宅すると、ゴロは拒絶された恨みから、料理人と彼女が不倫を犯したとウソの密告をして侯爵を籠絡する。すると、ジュヌヴィエーヴは無実の罪をきせられ死刑を宣告されてしまう。ところが可哀想に思った兵士に助けられ、森に放置される。森の中で侯爵の赤ちゃんを産んで、神から使わされた牝鹿の乳で子供が育てられる。子供向けのストーリーでは、赤ちゃんを産むのではなく、ジュヌヴィエーヴの孤独を癒すために天から男の子がやってきたりする。
やがて森に鹿狩りをしにきた侯爵とジュヌヴィエーヴが出会い、彼女の身の潔白が明らかとなり、今度はゴロが死刑の宣告を受けてしまう。ゴロが、死刑執行人に生皮を剥がされるという筋書きのものもある。助け出された彼女は、復権を果たしたのも束の間で、心労がたたったのかすぐに死んでしまう。それまで献身的に彼女に尽くしてきた牝鹿も後を追って死んでいく。これが何百年もの間、ヨーロッパ各国の庶民の間に広く流布して来たというのは、そのお涙ちょうだいの哀しいストーリーが、もちろんその時代のいろいろな背景というものも考慮に入れなければならないのだが、感情移入をし易かったからではないだろうか。

●パロディとしてのミニオペラ
しかし、後に発見されることになるサティ版『ブラバンのジュヌヴィエーヴ』の台本を書いたシュミノ卿(J・Pコンタミーヌ・ド・ラトゥール)のストーリーでは、森の中で赤ちゃんを産むことはないし、復権してから死んだりもせず、最後はめでたく幕を閉じる。サティもシュミノ卿も、『ブラバンのジュヌヴィエーヴ』をお涙ちょうだいの哀しい物語とするよりは、パロディとしてちょっとしたお遊びをやりたかったのではなかっただろうか、という推測が成り立ってくる。その証拠に、ミニオペラの最後は、群衆の歌声が「さあ、これでお終い、めでたし、めでたし、お終い」と歌って、感傷に浸る余裕を観客に与えることなく、突然ぷつんと切れて大団円を迎える。
こうした終わり方を可能とするには、『赤ずきん』の童話のようにだれもがその基本となるストーリーを知っていることが前提条件となる。既に『ブラバンのジュヌヴィエーヴ』をテーマとした音楽は、ハイドンがカンタータを作曲し、オッフェンバックは喜劇のオペラを書き、シューマンも唯一のオペラ『ゲノフェーファ』で取り上げている。
しかし、当時最も一般大衆になじみがあったのは、リュリのオペラ(Atys)で歌われた作者不明の『聖ジュヌヴィエーヴの聖歌』であったようである。また、フランスにおいては、イラスト入りの民衆版画(l’imagerie populaire)の全盛期に、その聖歌のテキストの何千ものコピーが、定期市や教会の入り口で配られたことが、ジュヌヴィエーヴの物語を広く知らしめることに拍車をかけたようだ。

●サティ、モンマルトルに住み着く
ところでサティは、1887年、21歳前後にモンマルトルに住み着き、『J.Pコンタミーヌ・ド・ラトゥール』というペンネームを持ったカタロニア血筋の詩人と気が合い、彼の詩をもとにした5つの歌曲を作曲している。『ブラバンのジュヌヴィエーヴ』は日付が明確ではないのだが、1900年頃に作られたものと推測されている。
サティが出入りしていた当時のモンマルトル界隈といえば、丘の上にそびえるサクレクール寺院を中心に、パリコミューン後の復興の槌音が響く中、妖しげな歓楽街が形成されていった場所である。
初期の頃は、ブルジョワたちが密かに女性を匿う場所として知られ、やがて酒や女、目新しい何かを目当てに芸術家たちが集まり、しだいに一般庶民にも広がってサーカス小屋、芝居小屋、芸術酒場としてのカフェ・コンセールが幾つもオープンし、大道芸人やシャンソンなど、雑多な雰囲気が渦巻いていた場所であった。
芸術家たちの人気の場所の一つが、カフェ・コンセールの『シャ・ノワール(黒猫)』だった。1885年から10年間というのは、ここがパリ社交界の名所の一つになっていた。エドガー・アランポーの小説の題名から命名したものだが、まだ映画のような動画がなかった時代、“影絵芝居”が最大の呼び物で、ジャーナリストや詩人、画家や音楽家などが集って大騒ぎを繰り返していた。
サティもまたピアノ弾きとして『シャ・ノワール』に雇われるのだが、数ヶ月後には経営者のルドルフ・サリと喧嘩して辞め、近くの同じようなカフェ・コンセールの『オーベルジュ・デュ・クリュ(釘の旅籠)』に移って伴奏ピアニストとなっている。
サティとシュミノ卿(J.Pコンタミーヌ・ド・ラトゥールという名前でだが)は、他にも共同作業で舞台音楽作品を作っている。その中には、当時のカフェ等で演じられていた影絵芝居を想定してつくられたのではないかと考えられるものもあり、今回のサティの『ブラバンのジュヌヴィエーヴ』も、人形劇として作曲されたというよりは、むしろ影絵芝居を想定していたらしいということが伺えるのである。サティもシュミノ卿も、それが『人形劇』であるなどとは一言も触れていなかったのだが、それではなぜ、今まで人形劇として通ってきたのだろうか?

●初演の人形劇が誤解の原因に
『ブラバンのジュヌヴィエーヴ』がパリのシャンゼリゼ劇場で初演されたのは、サティの死後約1年経った1926年5月17日、ちょうどサティ60歳の誕生日であった。サティのお墓を建立する基金の募集が目的だった追悼演奏会をプロデュースしたのは、エチエンヌ・ボーモンという伯爵で、他のイベントにも名を連ねている。彼は、以前に見たことがあるドンキホーテの人形劇が頭にあったらしく、人形使いや舞台美術を同じスタッフに依頼して『ブラバンのジュヌヴィエーヴ』を人形劇として上演したのだった。以後、それは、“人形劇”であるという誤解の固定観念を人々に植え付けた原因となったようである。
楽譜はピアノの背後から見つかっていたのだが、まだ台本のト書きがあることが知られていなかったのか、数年後の1929年に出版された楽譜には、民衆版画から抜いた『聖ジュヌヴィエーヴの聖歌』が代わりに当てられていた。
それではほぼ50年後に、どこから韻文と散文からなる3幕ものの台本が出て来たのかというと、サティの追悼演奏会で初演をプロデュースしたそのボーモン伯爵の書類の中から見つけ出されたのであった。それがいつ頃どういう経緯でそこに漂着したのかは、今ではまったく知る由もないが、それは質素な32枚の紙に、読みにくいコンタミーヌの文字が、緑色のインクで書かれ、標題には音楽がエリック・サティによるものであると書かれていたようである。
こうした長い紆余曲折があり、1冊の楽譜の中に曲と歌詞、ト書きの台本が一緒になって出版されたのは、やっと1980年代に入ってからのことであった。
それにしてもサティの死後、50年以上の長い道のりを経て、曲と台本が一緒になるなんて、幾らサティが諧謔家で自己韜晦に満ちていたとしても、あまりの不思議さに思わず目まいがしてくるほどだ。改めて、サティが、「ご苦労さま」と下界を見下ろしながら、微笑んでいる様子が彷彿としてくるのである。

Tex by 柴野利彦(画家・写真家)

主な参考文献
楽譜「Genevieve de Brabant」序文 Ornella Volta UNIVERSAL EDITION 1989
楽譜「Genevieve de Brabant」 UNIVERSAL EDITION 1958
「Le rideau se leve sur un os」Ornella Volta
漫画『Genevieve de Brabant」 LES EDITIONS MODERNES 1937
「キャバレーの文化史」ハインツ・グロイル著 ありな書房 1989
「Exposition Erik Satie」オルネラ・ヴォルタ監修 2000
「エリック・サティ覚え書」秋山邦晴著 青土社 1990
「サティ イメージ博物館」オルネラ・ヴォルタ著 音楽之友社 1987

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柴野さつきによるミニオペラ エリック・サティ ブラバンのジュヌヴィエーヴ
初演:2010年 6月25日(金)
再演:2010年10月23日(土)
会場:横浜人形の家 あかいくつ劇場